富南の由来
代表が秋山富南の子孫に当たることから命名。
ロゴマークも富南が食べていたであろう、柿の原木が敷地内にあることから決定された。
ロゴマークも富南が食べていたであろう、柿の原木が敷地内にあることから決定された。
秋山富南(1723~1808)郷土史より抜粋
三島で私塾を開いていた並河五一に入門し漢学を学び、また白隠禅師に師事し禅を学びました。
50歳の頃、開いた「秋山塾」に、富南の高名を聞き付けて教えを乞う者が、近在はもちろんのこと、遠くは相模・甲斐まで及びました。後の韮山の代官江川英毅(坦庵の父)もその1人でした。
寛政5年(1793)幕府は海防の見地から伊豆半島をくまなく巡視することにしました。富南は、代官江川英毅に願い出て、巡視の道案内を務めました。これがきっかけで『豆州志稿』の編纂も幕府の許しを得て始め、寛政12年(1800)ついに完成しました。このとき富南は78歳、編纂を志してから12年の歳月を経ていました。このことから、富南は「伊豆における伊能忠敬」であったと言えます。『豆州志稿』は13巻から成り、江戸時代の伊豆国全土の地理、地形、里程、村落、川、さらに天災地変などが詳細に記録されています。原本は三島市指定文化財で、三島市郷土資料館の3階に展示してあります。現在でも研究者必携の書となっています。
三島で私塾を開いていた並河五一に入門し漢学を学び、また白隠禅師に師事し禅を学びました。
50歳の頃、開いた「秋山塾」に、富南の高名を聞き付けて教えを乞う者が、近在はもちろんのこと、遠くは相模・甲斐まで及びました。後の韮山の代官江川英毅(坦庵の父)もその1人でした。
寛政5年(1793)幕府は海防の見地から伊豆半島をくまなく巡視することにしました。富南は、代官江川英毅に願い出て、巡視の道案内を務めました。これがきっかけで『豆州志稿』の編纂も幕府の許しを得て始め、寛政12年(1800)ついに完成しました。このとき富南は78歳、編纂を志してから12年の歳月を経ていました。このことから、富南は「伊豆における伊能忠敬」であったと言えます。『豆州志稿』は13巻から成り、江戸時代の伊豆国全土の地理、地形、里程、村落、川、さらに天災地変などが詳細に記録されています。原本は三島市指定文化財で、三島市郷土資料館の3階に展示してあります。現在でも研究者必携の書となっています。
富南の郷里の歌
ここは三島の 安久村よ 富士を背中に 豆州に向かう
白隠禅師の 教えを受けて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 楽しもうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
蛭が小島は 頼朝公の 旗揚げ場所と 富南が決めて
江川代官の力を借りて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 笑おうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
伊豆の七島 海里を測り 豆州一国 地図をつくる
豆州志稿の編纂おえて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 暮らそうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南太鼓だ 歌って踊れ
ゆったりと ゆっくりと ここでひとつの 花になれ
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
ゆったりと ゆっくりと 嗚呼! これで良かったと
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
◇作詞・作曲 秋山信治
白隠禅師の 教えを受けて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 楽しもうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
蛭が小島は 頼朝公の 旗揚げ場所と 富南が決めて
江川代官の力を借りて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 笑おうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
伊豆の七島 海里を測り 豆州一国 地図をつくる
豆州志稿の編纂おえて
ゆったりと ゆっくりと ここで一緒に 暮らそうか
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南太鼓だ 歌って踊れ
ゆったりと ゆっくりと ここでひとつの 花になれ
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
ゆったりと ゆっくりと 嗚呼! これで良かったと
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
富南(愛よアイヨー) 富南(良い所ヨイショ) 富南の郷里
◇作詞・作曲 秋山信治